雨と傘と青空と 一度しか使ったことのない傘がある。 白い雲が浮かぶ、さわやかな青空をたたえたその傘は、玄関脇の傘立てで、埃を被り眠っている。きっともう、二度と使うことはないだろうに、捨てられないでいる。 その傘が私の手元に来たのは、二年前のちょうど今頃、梅雨の時期だった。 「はい、瑞希。誕生日おめでとう」 「え……これ、傘?」 誕生日プレゼントとしてはめずらしいといえる細長い物体に、驚きながらも受け取る。 「そう、ほら開いてみろよ。早く!」 「ちょっと待ってよ! ……え、空?」 「なかなか綺麗だろ」 白い綿のような雲と、さわやかな青空がプリントされたその傘は、残念ながら私の好みではなかった。それなのに、何を思ってこんなものをプレゼントに選んだのか。その問いかけに返ってきた答えは、すごいものだった。 「瑞希の上にいつだって青空が広がっているように、と思って」 本日二度目の衝撃だった。とてつもなく恥ずかしいその台詞を言った当の本人は、自覚がないのかケロリとしている。なぜ、聞いたこちらがこらえようのない恥ずかしさに、顔中のみならず首までも、赤く染めあげなければならないのか。 「私、雨のほうが好きっていったよね」 「そういえば、うん」 「だから、傘は透明のビニールがいいんだって言ったよね」 「雨空が見えるから、だよな」 「……覚えてるくせに」 「まあいいじゃん、俺があげたかったんだから」 「…………ありがと、秀一」 その後しばらく、梅雨の時期にしては珍しく、晴れの日が続いた。晴天が嫌いなわけではないけれど、雨の日の湿った空気とか、屋根や窓に当たる音とか、そういうものが好きなのだ。だから、雨が降らないのが寂しくて、つい秀一に八つ当たりをした。 「傘くれたんだったら、雨くらい降らしてよ」 「無茶言うなよ……それに瑞希、雨降ったってあれ使わないだろ」 「うん、多分」 「いや、嘘でも使うとか言えよ、そこは」 「嘘ついてどうすんの」 「…………俺と一緒にいたら、ずっと晴れなんだからな」 「うわ、最悪」 自称晴れ男の秀一が、仕返しとばかりに言ってきた台詞に、さらに反撃する。ひどいと嘆く秀一の横で、いつの間にか笑っている自分がいた。 その次のデートのとき、ちょうど雨が降っていた。傘立ての前で十分ほど悩んでしまったために、待ち合わせに遅れてきた私に、秀一は言った。 「別れたい」 まさか遅刻が原因とも思えず、理由をたずねようとした私を遮って、秀一は続けた。 「俺の青空は瑞希のもとにはなかったんだ」 意味が分からなかったが、その流暢さは、あらかじめ用意されていた台詞の、それだった。呆然とした私を置いて、秀一は去っていった。連絡を取ろうにも、電話番号もメールアドレスも、住所すら、変えられていた。 やりきれない思いがいっぱいで、泣いて落ち込んで、ずっと家の中に閉じこもっていた。天気は雨ばかりだというのに、ひとつも喜べなかった。そうして一週間ほど経ったあと、ひとつの解決策に至った。 あいつは頭がおかしかったのだと、そう思うことにしたのだ。思い返せばいつだってあいつの発言はどこかずれていた。そう思い込むと、少しだけ楽になった。 あの日から、あの傘は使っていない。 今朝、青空推進なんとかかんとか、という団体から電話が来た。秀一が死んだという知らせだった。 聞けば、秀一は紛争の起きている某国で、平和と緑化を推進する団体として活動していたらしい。そこで運悪く市街戦に巻き込まれて死んだのだという。そして、その遺品の中から、私の写真と連絡先が出てきたということらしい。 勝手な話だ。言えば、ついて行ったのに、と思う。もう過ぎた話だけれど。 秀一が死んだ空は、青空だったのだろうか。窓の外を見て考えた。 「いー天気……」 独り言は窓を打つ雨音にかすれて消えた。 end かなり昔の作品を引っ張り出して、99%くらい改訂したもの。 070630(初出070620) 睦月 朔 |