その日、僕は隣町にいた。
 隣町に来るには、バスと電車を乗り継いで30分はかかる。空を見ると雲行きが怪しくなってきている。道に迷ったのがいけなかった。隣町に1人で来ることなんて、めったになかったから。
 施設のあった町は小さく、僕らは大概のことをするのに隣町まで行かなければならなかった。隣町には図書館や映画館、初詣の際の神社などがあった。何か用があって隣町に行くときは、大抵友達や先生が一緒だった。だから道に迷って、思っていたより時間がかかってしまった。使える時間は限られていたのに。
 僕は走った。必死で走った。そのうち雨が降ってきて、傘を持っていなかった僕は濡れながら走った。傘を買う時間すら惜しかった。だけど、電車が出て行くのは定刻どおりだし、バスだって僕のためにスピードを上げてくれるわけがない。
 濡れたまま、肩で息をしている僕に、混んだ車内の客は迷惑そうに、眉間にしわを寄せた。何もかもがもどかしく感じた。不安と一緒に、濡れた服が僕の体に重くのしかかってきて、そのまま膝をついてしまいたかった。
 バスのタラップを駆け降り、施設に向かってひたすら走った。雨は隣町にいたときよりもさらに激しくなっていた。走るたびに、ばしゃっと水しぶきが上がる。さっきにも増して、ズボンの裾がどんどん重たくなっていったけれど、他に着ている服だってとうに重くなっていた。ばしゃっ、ばしゃっ。雨の中、僕は必死で走り、施設に駆け込んだ。
 談話室で、みんなが泣いていた。ぬれねずみの僕を見てみんなが、何をしてたの、とか、どこ行ってたの、とか言っているようだったけれど、その中でそのときの僕の耳まで届いたのは、お父さんが……という言葉だけだった。その言葉に僕はどうしようもない不安に駆られ、先程までの勢いはどこへ行ったのか、とてもゆっくりと、先生が寝ているはずの部屋に向かった。
僕が施設を出る前にはもう先生は危ない状態だったはずだ。それをふまえて今の状況を考える。
 談話室の友達はお父さんが……と言って泣いていた。
 先生の部屋に向かう廊下には電気が点いて、いなかった。
 先生の部屋からは、わずかな明かりが、漏れていた。
「先、生……?」
 ふすまに手をかけ、引いていく。いつもは軽いはずのふすまが異様な重さを伝えてくる。雨をたっぷり吸い込んだ僕の服はもっと重い。手が動かない。ふすまがなかなか開かない。このまま永遠に、僕はふすまの向こうへ行くことはできないんじゃないかと思った。そのとき、ふいにふすまが向こうから開かれた。立っていたのは先生の奥さんで、僕の姿を見てとても驚いたようだった。
「章くん! いったいどうしたの!?」
「先生っ!」
 赤く腫れた彼女の目を見て、ぼくは呪縛から解き放たれたように、先生の傍へ駆け寄った。枕元に膝をつき、何度も先生に呼びかける。すると先生はゆっくりと目を開いて、先生の布団を濡らしていた僕の手を取った。先生の手の暖かさで、僕はなかなか開けないでいた手を開くことが出来た。握り締めていたものを僕は、無言で差し出した。何かを伝えたくて、でも何と言ったらいいのか分からなかった。
「……ありがとう」
 それは先生のいつもの笑顔だった。
 隣町からずっと握り締めていた僕の手にあったのは、隣町の神社の病気平癒のお守りだった。それは握り締めていたせいでよれよれで、雨に濡れてびしょびしょだった。それを嬉しそうに持つ先生に涙が溢れた。
「章くんだけのお父さんだったら、章くんの心配だけ出来たのにね……」
 先生は知っていた。僕が先生を苦手に思っていたことを。またその原因も。そして、僕がほんとは先生を大好きだったことも。全部、先生は知っていた。
 僕は僕だけのお父さんが欲しかった。僕だけを見て、僕のことだけを考えていてほしかった。他の子と共有なんかしたくなかった。
「……お父、さん……」
 僕は初めて、先生をそう呼んだ。今この瞬間だけは、先生は僕だけのお父さんだと思えた。さっきよりも嬉しそうな顔をして、弱々しい手で僕の手を握り締めてくれる先生に、涙が止まらなかった。泣きながら、僕はずっとお父さんと呼び続けていた。先生の奥さんが呼んできたみんなが、先生に最後のお別れをしている間も、僕はずっと涙を流し、お父さん、お父さん……と言っていた。それが先生の耳まで届いていなかったとしても、今まで呼べなかった部分を取り戻したかった。

    *****

 ばしゃっ、ばしゃっ、ばしゃっ。
 ちょうど家の前で止まった水音。
 がちゃがちゃ、ばたん。
 ドアを開ける音。
 ぺたぺたぺた。

「おとうさーん! ただいまっ」
 今や僕自身、一児の父となった。そして妻のお腹の中には、2人目の子がいると最近わかった。
「おとうさぁん、おきてよっ」
 子供が出来て、自分が親になって、いろんなことがわかった。きっと今僕が感じていること、思っていることと同じことを、先生も僕たちに感じたりしていてくれたんだろう。
「ごめんごめん。ほあら、帰ったらまず何するんだっけ?」
「てあらい、うがいっ」
 愛しい子供には、いろんなことを教えてやりたいし、伝えてやりたい。
「そうだね。きちんと手洗いうがいをしてきた子にはごほうびがあるよ」
「ほんとっ!?」
 僕らのいっぱいの愛情と、何より悲しみでなく幸せを、たくさん覚えていってほしい。ぱたぱたっとかけていく小さな背中に、そう願った。









end


「水音が聞こえた。」の一文から書き始める、という企画で。
070509(初出060224) 睦月 朔