夏時雨 その言葉が祖母の記憶の核だった。 夏の昼下がり、狭いアパートの一室で、窓を開け放して青い空を眺めていた。手にある団扇では、微かな涼しか与えてくれない。じわりと浮かんだ汗が額を伝って目に入る。思わず目を閉じて、それまで聞こえていた音が変わったのを感じ、記憶が蘇る。あぁ、あの夏時雨が聞きたい。 *** 祖母の家の裏には竹林があった。僕はよく、祖母に手をひかれて竹林の中を歩いた。薄暗く、聞こえる音のどれもがささやかなその空間は、夏の暑い日でも、少し涼しい感じがした。あと少しで竹林を抜けるというときに、祖母が足を止めた。 「耕ちゃん、目を閉じてごらん」 そう言って祖母は目を閉じた。それに倣って僕も目を閉じる。蝉の声、竹の葉ずれ、竹林を抜けたところにある川のせせらぎ、遠くに聞こえる人の声。そういったものが、目を閉じることでより鮮明に響いた。それを暫く、二人黙ったまま聞いていた。暗い中で、目を閉じてただ音だけを聞く。きっと実際にはそんなに時間は経っていないのだろうが、祖母が口を開くまで、無限の時間が通り過ぎていった気がした。 「いろんな音が近いじゃろう。これが夏時雨じゃ」 「……夏時雨?」 「そう。……あぁ、今日はええ夏時雨じゃなぁ」 目を細めて空を見つめる祖母を見て、僕はその言葉を教えてくれたのが祖母でよかったと思った。 その年の夏休みの宿題の絵は、竹林の中から川を眺めて描いた。時々、目を閉じて夏時雨を聞いた。 次の年の夏、僕は意気揚々と祖母の家を訪れた。祖母の家に来る前に、「夏時雨」を辞書で引いたのだ。 辞書に「夏時雨」は載っていなかった。 そのことを知って、僕が感じたのは優越感だった。祖母は夏時雨という言葉が無いのを知らない。祖母が知らないことを僕は知っている。それを嬉しく思った。 「おばあちゃん、夏時雨っていう言葉は無いんだよ! 辞書に載ってなかったもん!」 僕がそういうと、祖母は特に驚いた様子もなくにっこり笑って「そうなんかい?」と言った。それがなんだか悔しくて、強い語気のまま僕は続けた。 「そうだよ! おばあちゃん知らなかったの?」 「それは知らんかったわぁ。おばあちゃんの辞書にはちゃんと載っとるんじゃけどなぁ」 「そうなの? おばあちゃんの辞書ってどれ? 僕にも見せてよ」 「おばあちゃんの辞書はな、おばあちゃんの頭の中にあるんよ。だから見せることはできんの。じゃけどな、耕ちゃんの頭の中にも、耕ちゃんだけの辞書があるんよ」 「僕だけの辞書?」 「そう、耕ちゃんだけの辞書。そこに載っとるもんは増やすこともできるし、変えることもできる。それは、誰かに見せたげることも、誰かにあげることもできんけど、誰かに教えたげることはできる。そういう辞書。じゃからそん中に夏時雨も入れたらええ」 「僕だけの辞書……」 祖母の辞書にはどれだけのものが載っているのだろうと思った。 その年の夏、祖母は亡くなった。祖母の最期の言葉は僕には忘れることのできないものだった。 「あぁ、今日もええ夏時雨じゃ」 父も母も、叔父も叔母も、その場にいた親戚の誰も、夏時雨の意味を知らなかった。その時、「夏時雨」は祖母と僕の辞書の中にしかないものなのだと知った。 そのことが、悲しくて、嬉しくて、とても切なかった。 *** 父の転勤で、祖母の家からはさらに遠くなり、部活や受験を理由に、あの夏以来祖母の家を訪れることはなくなっていた。墓参りにも、行っていなかった。墓を見てしまえば、そこで祖母の思い出が薄れてしまうのではないかと思っていた。 しかし祖母の言葉も思い出も、僕の辞書にはちゃんと載っている。今年の盆には、あの夏時雨を聞きに行こう。 目尻に溜まった汗を拭っても、閉じた目は暫くそのままにしていた。 end 岡山弁って文字で見るとちょっと……。好きですが。 070509(初出061111) 睦月 朔 |