雨の記憶 水音が聞こえた。 ばしゃっ。 しだいに近づいてくる。 ばしゃっ、ばしゃっ。 ああ、そうか。あの日の音だ。 ばしゃっ、ばしゃっ、ばしゃっ。 あの日雨の中、必死で駆けた、僕の足音。 ***** 僕は先生が苦手だった。早くに家族をなくした僕をずっと育ててくれた、施設の先生。本当は感謝するべきなんだろうけれど、いや、実際感謝はしていた。それでもどうしてか、懐くことはできなかった。 僕のいた施設には、僕のような子供がたくさんいて、先生はみんなの「お父さん」だった。みんな、先生を「お父さん」と呼んでいた。でも、僕は呼ばなかった。そのことについて、僕はよく他の子に言われていた。 「章くん、なんで章くんはお父さんって呼ばないの?」 「だって、ほんとのお父さんじゃないじゃん」 「そうだけど、でも……」 「呼びたいやつだけが呼べばいいだろ。僕は呼びたくない」 「章くん……」 みんなその度に、悲しそうな目で僕を見た。僕はそれが苛々してしょうがなかった。でも先生は、僕が先生を「先生」と呼んでも、いつも温かな笑顔で返事をした。その笑顔は、他の子が先生を「お父さん」と呼んだときとなんら変わりはなかった。そっちのほうがもっと、苛々した。 ある日のことだった。 「章くーん、お父さんがお菓子買ってきてくれたよー」 そう呼ばれたほうに目を向けると、先生がみんなに菓子を配っていた。その菓子は、みんなが大好きなものだった。だから、みんな笑顔で先生にありがとうを言って、先生も笑顔で一人ひとりの頭を撫でていた。 それはとても幸せそうな父と子の図だった。 「ぼくはいらない」 そういって、僕は乱暴に踵を返した。みんながどんな顔になっているか、容易に想像できた。出来るだけゆっくりと、その場を離れようとしたけれど、出来るはずがなかった。 夕食後、僕は先生に呼ばれた。僕が部屋に入ったとき、先生はいなくて、めったに入らない先生の部屋に居心地の悪さを覚えた。それをごまかすため、部屋をきょろきょろ見回した。すると机の下にある、スーパーの袋が目に入った。 「おや、待たせて悪かったね」 ガチャリとドアを開けて先生が入ってきた。そのまま先生はまっすぐ机に向かい、さっきのスーパーの袋を取った。 「ほら、これ。章くんも好きだろう?」 そういって、昼間みんなに配っていた菓子を取り出した。やさしく微笑む先生を見て、僕は顔がかっと熱くなったのを感じた。きっと僕の顔は真っ赤だろう。 「……ありがとう、ございます」 そう言って、緩慢な動きで先生から菓子を受け取った。受け取るとすぐ、逃げるようにして先生の部屋を飛び出した。手で強く握り締めた菓子は、僕が部屋に着いたときには形が変わってしまっていた。僕はその菓子が大好きだった。 →next |