こうして僕は大人になった。



 僕の記憶の初めの方にある叔母さん、早紀さんは、今の僕と同じ大学生だった。その頃幼稚園児だった僕には、彼女はとても大人に見えた(母は、あんたと変わんなかったわよと言ったけれど)。来るたびに僕の大好きなプリンを持ってきてくれる彼女が、僕は大好きだった。
「おばさん、おばさんっ! ありが」
「早紀ちゃん」
「……早紀ちゃんありがとー」
「どういたしまして」
 そういってにっこり笑う彼女はとても綺麗だったのだけれど、僕に「早紀ちゃん」と呼ばせようとする彼女の笑顔はとても怖かったのを覚えている。
「あら昴、あんたもう食べないの?」
「だってここおいしくないもん」
 当時の僕は、プリンのカラメルだけは苦手で、いつも残していた。いつもなら早紀さんが帰った後に食べるから、早紀さんはそのことを知らなかった。けれどその日はたまたま早紀さんが泊まるということで、一緒に食べたため、僕の癖がわかってしまったのだ。
「ばかねぇ、ここがあるからプリンはおいしいんじゃない。カラメルのおいしさが分からない内は大人になんてなれないわよ」
 大好きな人の言葉というものは、時に子供にとっては、神の言葉に等しい。当時の僕には、そういってカラメルを食べる彼女が、とても神々しいもののように思えた。

 その後、早紀さんは就職し、今までみたいに頻繁に僕の家に訪れることはなくなった。
 僕が小学3年生になった頃、久しぶりにプリンを持って僕の家を訪れた彼女に、僕は誇らしげに胸を張って告げた。
「おばさん! ぼくね!」
「…………」
「……早紀ちゃん?」
「なぁに?」
「え、うん。……あのね! 僕プリンのカラメル食べれるようになったんだ! だからもう大人だよ!」
「うん?」
「え?」
「何それ」
「だって早紀ちゃんが前言ったんじゃん! プリンのカラメルくらい食べられないと大人になれない、って」
「あたしそんなこと言った? ってゆーか、そんなことで大人になれたら誰も苦労しないわよ。あんた大体コーヒー飲めないでしょ。そんな大人いないわよ」
 そのとき僕の手にあったのは甘い甘いココアで、僕は返す言葉が見つからなかった。今でもコーヒーは正直苦手だが(これは早紀さんには内緒だ)、当時は飲もうとすら思わなかった。
 僕の頭をくしゃくしゃ撫でながら、ブラックのコーヒーを飲む彼女は、やはり僕にはとても立派な大人に見えた。

 早紀さんはやがて結婚し(ここで僕の初恋は終わりを告げた)、前よりも僕の家に来る機会は減った。その間に僕は中学生になり、その生活も終わろうとする頃に彼女は子供を連れて僕の家を訪れた。
「早紀叔母さん、久しぶりですね」
「余計なことを言う男はもてないわよ」
「……早紀ちゃん、相変わらずだね、いろいろ」
「なぁに?」
「や、えと、あ! 僕コーヒー飲めるようになったよ!」
「ふぅん」
「え? だから、その……」
「何よ」
「……覚えてないの?」
「だから何よ」
「コーヒーが飲めないようじゃ、大人じゃないって。だからコーヒー飲めるようになったら……」
「大人? 誰がそんな馬鹿なこと言ったの?」
「や、だって、え……」
「はっきりしない男ねぇ。そんなんじゃまだ彼女もいないんでしょ。筆おろしも済んでないようなガキんちょがなにを偉そうに……」
「そこまで言わなくったって……」
「まあね、それくらいのほうが可愛いのよ。いいじゃない」
 そう綺麗な笑顔で言われてしまえば、僕は何も言えなくなる。やっぱり僕は彼女が大好きでしかなかった。それに、当時の僕は「筆おろし」の意味を知らなくて、自分の知らない言葉を知っている彼女を、ただ純粋にすごいと思った(今思えば赤面ものだ)。

 高校に入った僕には彼女ができた。僕から告白したわけではないが、彼女はそれなりに可愛くて、付き合っていくうちにだんだんと愛しくなった。結局その彼女とはキスまでで、1年もしないうちに別れた。次の彼女とは卒業直前まで続いていたのだが(筆おろしを済まさせていただきました)、愛されている気がしないといわれて卒業式に別れた。その理由は、前の彼女と同じものだった。知らないうちに、僕は彼女たちを早紀さんと比べていたのかもしれない。
 その頃、早紀さんが僕の家を訪れる機会は増えていた。早紀さんの息子、亮介くんを彼女の仕事が終わるまで、うちが預かることにしていたからだ。僕は初めての彼女ができたとき、当然のように早紀さんに報告した。  けれど、彼女からの返事は「良かったわねぇ」の一言で、僕は拍子抜けというか、なんともいえない物悲しい気持ちになった。彼女と初めてキスしたときは、結局報告しなかった。次の彼女と初めてシたときも、報告しなかった。今更ながら、逐一早紀さんに報告するというのは恥ずかしいということを知ったのだ。






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